声を聴く。短歌絶叫ライブレポート

3月10日、吉祥寺のライブハウス曼荼羅にて福島泰樹の短歌絶叫ライブを聴く。

地下の広くないホールは40人程の人たちでほぼ満杯。焼酎ロックを飲みつつ開演を待つ。観客の年齢層は幅広く20代から70代くらいか。

7時半ステージに福島が現れる。マイクの周りには乱雑な机のようにテキストが散らばっている。
彼の後ろではピアニストが譜面を広げ美しい黒髪を束ねている。福島は歌うべきテキストを探し終えると、床に置いたグラスの水(酒か?)を手早く飲み歌い始める。


石川啄木中原中也寺山修司など有名人だけでなく、挫折者、革命家、作家、無名に終わった詩人など様々な死者の魂を、執拗に、この瞬間に彼らの死に会ったかのように生々しい感傷と怒りを込めて叫ぶ。その行為は一見、野蛮でもはや時代遅れの匂いを放ちつつも我々が忘れてはならぬもの、不正義への怒り、踏みにじられた人々の記憶などを、日本人の痴呆的忘却から蘇らせようとしている。過去はまだ過去ではない、お前たち忘れてないか、と問うように、絶対的感傷力によって叫ぶ。福島は過去から離れない。いや彼が叫ぶときに過去がその周囲に出現するのかもしれない。福島は過去を起点に現在にそして未来へ向いて立ち続けている。これは凄まじいエネルギーがいることだと思う。

福島の表面の荒々しさ、過剰とも思える感傷力、怒りや悲しみには、調和や短歌へ向けて大きく旋回させつつ回帰しようとする力が潜んでいる気がする。

福島は「短歌が感傷でどこが悪いんだ」と言い放ち、それを実践し続けている。感傷の持つ力、その赤裸々な感情が動くことを現代人は苦手としているが、感傷を構成する様々な感情の力、怒り、悲しみ、憎しみなどは歴史書には記されることのない人たちの記憶を蘇らせてくれる。そして過去は我々の未来の姿かもしれないということも。彼の叫びによって時代が目覚めるかどうかはわからない。だが彼の叫び声が現代の状況へのリアルな警告となりつつある予感はする。