よむよむ〜短歌をはじめたわたしのために ver.0.3


四ッ角を曲がるトラック青島(チンタオ)のビールが悲鳴をあげる上海/俵万智*1

初めて『サラダ記念日』を読んだ時に一番印象に残ったのはこの歌。ああ、今読んでも好きだなぁ…。
どうでもいいけど、青島にはルビがあるのに、上海にはルビがないのがちょっと気になります。ビールがあれば生きていける私はサクッと読めるのですけれど。

サラダ記念日―俵万智歌集

サラダ記念日―俵万智歌集

私が初めて『サラダ記念日』を読んだのは一昨年で、105円で買っちゃったりしてるんですが、今私が持ってるのは1987年10月5日発行の255版で、1987年5月8日が初版。
5ヶ月で255版って、すごいな、おい。
こないだ本屋さんで見かけたのは380版くらいだった気がしますけど、裏表紙にバーコードが入った関係でいろんな人のコメントがなくなっちゃってましたね。

それはさておき、今回のメインは俵万智さんの短歌入門書『短歌をよむ』を読んでの感想です。*2
短歌をよむ (岩波新書)

短歌をよむ (岩波新書)


まず、「はじめに」から以下の一文を。
「短歌には、二つの「よむ」がある。千年の旅は、短歌を「読む」、そして自分自身を見つめることは、短歌を「詠む」。」*3
他人の短歌(あるいは自分の過去の歌)をよむのは「読む」で、自分が短歌を作るのは「詠む」と書きます。短歌*4をやってる人だととても当然なことなんですが、私も短歌始めたばかりの頃は「へぇ〜」と思いました。
ま、それをふまえて。

第一章の「短歌を読む」という章は、万智先生の授業という感じで短歌の読み方とか枕詞とかがわかりやすく説明されています。紹介されている歌も万葉集の歌や平安時代の歌がほとんどなんですが、恋の歌なんかは当時の背景をきちんとふまえつつも我々現代人の方にひきよせて説明されていて、とても納得。
「短歌の場合、どの時代にあっても、土俵は同じ五七五七七。今を生きる自分も、同じ土俵で相撲がとれるのである。千年前の人も、五百年前のひとも、十年前の人も、さらには百年後の人も、みーんな同志であり、みーんなライバルなのである。」*5という一文は短歌の性格を見事に表現してると思います。時間だけではなく、空間を越えても「みーんな同志、みーんなライバル」だよな、とネット短歌やってる私なんかは思います。別にネットに限らないんですけどね。
万智先生はこんな感じの授業してたのかなぁ。当時の橋本って、京王線はまだつながってないよな多分、などと関係ないこと考えたりしてしまいましたよ。

第二章の「短歌を詠む」の章では、主に俵万智さん自身の詠み方について書かれています。一首の推敲の過程や、作歌の素材の見つけ方などについて書かれているのですが、ここまで作歌の過程を本人が細かく、かつ何首分も書いている文章は他にあるんでしょうか?あるかもしれないけど私は知りません。何首もあるから参考になるし、とてもわかりやすいです。
「短歌を詠むはじめの第一歩は、心の「揺れ」だと思う。」*6と述べた後にさらにそれを縮めて、「あっ」の一言で表現してる *7んですが、いやあ、短歌の本質をこんなに短く表現した人っていないんじゃないですかね、きっと。短歌に限らず、創作全般に共通してることだと思いますけどもね、「あっ」って。
「あっ」ですよ、「あっ」…。すごいなぁ…。

この本は短歌入門書としてきちんと作られている本であるのに、限り無く一人称で書かれていて、それは嫌味のない一人語りで、ああ、この人は「あっ」を伝えるために短歌をやってるんだな、って素直に感じられます。これはちゃんと読者を意識しているから書けることなのでしょう。そしてそれは短歌にも表れていて、だからこそ『サラダ記念日』は多くの人に受け入れられて大ブレイクしたんだろうな、と思います。
『短歌をよむ』で語られていることには素直に耳をかたむけようと思いました、先生。

そんなこんなで、ドラム式のタイムマシーンに乗って『サラダ記念日』が大爆発していた当時、中学生だった自分に短歌やってみなよ、とか言ってみたらどうなるんだろ、などと妄想してみたりした小春川英夫です。

…まあ、別になんにも起きないな…。

あ、『ゲームの達人』は読んだな…。

*1:()内はルビです

*2:例によって以下、何も書いてなければ、注のp.xxは『短歌をよむ』のページ数です。

*3:p.鄱(ケイタイでは表示できないっぽいんですがローマ数字の小文字の2です)

*4:他の短詩型もそうだと思うけど

*5:pp.51-52

*6:p.86

*7:「あっ」はたびたび出てくる表現なのでページは省略