眠り猫

時々、友人の住むアパートに遊びにいく。長い付き合いで気楽にお酒を飲みとりとめもない話などすれば、いつしか酔いも回り眠くなって、そのまま泊まることもよくある。


友人はパピルスという名の猫を飼っている。白地に黒の斑点がかかった牝で、若い頃はすらりとしたスタイルでなかなかの美形で、気が強く喧嘩が弱くなつかない。十年前に公園に花見にいったときに拾ってきたそうだ。
僕は遊びにいくたびに手懐けようとするのだが、邪心が見抜かれているのか、抱きかかえようとすると噛まれたり引っかかれたりした。そうなるとこちらもむきになりますます追いかける。あちらさんは凶暴化する。そんな状態が数年続くとさすがお互い疲れてきて、妥協というか停戦が成立した。和平案は以下の通りだった。


パピルスは中山に対して自身の頭部、喉、首筋に触る権利が与えられる。ただし目的はパピルスの皮膚を掻くためであり、撫でてはいけない。特に尻尾の付け根は厳禁。
パピルスを掻く場合、中山はパピルスより目線の位置が高くてはいけない。本棚、レコードプレーヤーの上など、中山が床に座ってギリギリ手が届く場所にパピルスがいて、さらに気が向かなけば触ってはならない。上から目線で触れるのは厳禁。
・だいたい十秒くらいならパピルスを抱きかかえて良い。ただし一日一回に限る。
肉球に関してはパピルスがよほど気がむかなけば触れてはならない。そしてその判断基準はパピルスが自由に決める。


と、まあこんな感じだった。そのころのパピルスはやや肉が体につき始めたけど、動きはまだ俊敏で、貫禄のある女優みたいで、岩下志麻を猫にしたらこんな感じかなあとふと思ったりした。


そのころからである。パピルスがたまに話しかけて来るようになったのは。友人は時々仕事でアパートを長期間空けることがあったので、そんなときは僕が餌や水の補給など世話をしている。友人の家は僕の仕事場から近いので朝が早い日などはそのまま泊まる。


ある明け方になんか声がした。小声で話しかけられている気がて、ふと目覚めると枕元にパピルスが行儀よく座っていて僕はじっと観ている。餌が欲しいときはひとまずは柱を掻くなど腹が減ったアピールをするのだが、今回は静かに僕が目覚めるのを待っていた。そして僕が目覚めるのを確認すると立ち去っていく。
そんなことが何回か続き、次第に話しかける声が鮮明になってきた。どうやらパピルスが独り言を眠っている僕に言っているようだった。内容は僕に関することで小言や愚痴、仕事や生き方の心配などばかりだった。僕は嬉しいような気がしたけど、なにしろ明け方の一番眠い時刻である、それに指摘が厳しく的を獲ているのが嫌になって、はいはい聞いておきますよ、と適当に相槌を打つとすぐ眠りに戻るようになった。一度だけなぜか般若心経を唱えていたけど、さすがにあれは怖かった。
翌朝になり、いつも通りに澄ました顔のパピルスを眺めて、世間で言っているのとは逆で我が儘や気ままも極めれば人の心が読めるのだろうかと思ったりした。


不思議なことにパピルスが話しかけてしばらくすると僕はパピルスにあまり構わなくなってきた。今まであんなにこだわっていた抱き上げもめったにしなくなった。やっと僕はパピルスと同じ空間にいながら互いに違う世界があることに気がついた。薄暗い空間で手探りをし合うような優しさが必要だった。パピルスの世界に近づくためには抱きかかえてはだめだったのだ。所有しようなんて思ってはいけなかった。


今ではパピルスはだいぶ年を取り、以前ほど高い場所に上がることはなくなった。よく眠るようになり、心なしか性格が丸くなった気がする。たまに話しかけられることはあるけど、枕元でただ座っていることのほうが多い。その姿はまるで僕の話を真剣に聞いてくれているように見える。


灯を消して真のねむりにつくまでは右へ左へ花冷えの路地 坂本郁代