バイストンウェルと梳田とイン・アウト【2】
長澤詩夏の場合これといって準備は必要無いと思われた。
朝起きて身仕度を整える、そうして寝室の窓を開ける。只、それだけで良いような気がした。せっかくだから少しお洒落をしてみようかと思ったりもしたが、それもなんだか変だなと思い普段着のままで待つことにした。
まだ早朝にもかかわらず少し汗ばんで来た。時々窓から吹き込む風が心地いい。樹に繁る葉っぱと朝露の匂いを孕んだ風だ。詩夏はラジオ体操の匂いだと思った。懐かしい匂いであると。あの頃はラジオ体操から急いで帰るといつもおばちゃんが待っていた。
短歌を作るようになったのもおばちゃんの影響だ。ラジオ体操から帰ると毎日ふたりで短歌を詠みあった。それを懐かしいと思った。いつの間にか忘れていたような気がした。
振り返って時計を見る。7時をとうにまわっている。
(もしかして今日は来ないのだろうか?まあ、それもあるかな。約束している訳ではないし)
そう、約束は無い。詩夏にも確証は無かった。只なんとなく今日のような気がしただけだ。
詩夏のまわりには最近行方がわからなくなった歌人仲間が数名いた。全く予兆も無かったし後の足取りも掴めない。
詩夏はその人達が《翔んだ》のだと思った。理由は知らないし何処へとも分からない。
だがなんとなく詩夏はそういう風に理解していた。
少しだけ強い風が吹いた。
(今なら翔べるかもしれない)
何故だかそう思えた。この風ならば翔べるかもしれないと思えた。待つことは無い。自分で決めれば良いのだと思った。
ここは18階だし今ならこの風に乗って少しは翔べるんじゃないだろうか。一度そういう風に思うとそれが段々と確証じみた考えに思えて来た。
詩夏は窓枠に腰掛け地上から50メール程の空間で足を二、三度バタつかせてみた。
ひときわ強い風が吹いた…
*
「拡大映像、モニターに出ます」
なっ、なんだあれは!
「かなりでかいな」
「かなりじゃなくて、凄くだと思われますが」
…ああ、そうだなっ
「おい、あれがオーラバトラーってヤツか」
「い、いえ。多分違うと思います…あれはオーラシップかと…」
オーラシップ?…シップ。船かっ!?船だな…それくらいは私にも分かるぞ。
「小隊長、あれ!あいつの真下の建物。中程の窓に人影です。かなり身を乗り出してますが」
「おっ!? 女の子だよ」
「索敵手、あの人影を拡大出来るか」
「了解、光学ズームします」
「あ〜!? あの女の子、長澤詩夏だ」
「本当だ。詩夏ちゃんだわ。私、歌集データ全部持ってるもの」
「お前達、知り合いなのか」
「アイドル歌人の長澤詩夏ですよ。小隊長、知らないんですか?」
「なんだ!艦が流されてるぞ」
「目標の周囲、半径5kmの地場に極端な歪みが生じています」
「あの民間人はどうなった」
「大変! 彼女飛び降りる気だわ」
その長澤詩夏と呼ばれた女性は我々の目の前で高層マンションの中程の窓から飛び降りた
「目標に変化。発光してます」
モニターの中であの物体が薄い紫に発光している。
「目標の周囲がまるで陽暮れたような色だわ」
「あれは!? 小隊長、長澤詩夏が浮かんでます」
長澤詩夏は紫色の光の中でひとり浮かんでいた…
*翼なき少女が窓を開け放つそのうつくしき飛翔のかたち
-永田和宏-
*こんなにもひとりだなんてありえない紫色に鳴く蝉の声
-長澤詩夏-