バレンタインあるいは新田恵利のゆくえ

なるほどまたやってきましたね。資本家のバレンタインさんが甘い匂いを振りまきながら。あ、そこの中学生、うつむかなくったていいんです。あんなもんインフルエンザみたいなもんなんです。チョコなんてタミフルみたいなもんですよ。さあ早くいえに帰ってお母さんから義理チョコもらって寝てしまいなさい。
僕の中学生のバレンタインの思ひ出といえば好きな女の子に呼び出されてドキドキしてたら、長岡くんと同じクラスの田中くんに渡してください♪と差し出された手作りチョコをゆうぐれに届けにいったことですよん。ははん。

よくバレンタインは日本だけの商売人の考えた仕掛けといわれるが、ここまで根付くのは商売人の努力だけではないだろう。贈答文化もあるがチョコレートという小さくて工芸的な甘味が日本人にある繊細な感性と合っていたのだと思う。
バレンタインを歌った短歌を探してみたのだが、見つからなかった。作りづらいからかもしれない。ネット短歌あたりでは題詠で歌っているのかもしれない。

ただ直接にバレンタインを歌わなくても恋愛の祝祭的な感性の高揚を歌ったものは当然数多く作られている。たいていの恋愛なんて呆れるほど地味で平凡な日常で支え育てていくものなのですが、恋人たち同士が特別だとおもいこんで突っ走ってゆくのも真実だと思う。若くないこと自体には何の価値もない。

チョコレートって年を取っても食べ続けられる気がする。あの甘苦さには人それぞれの様々な人生が含まれているのかもしれない。チョコレートには他のお菓子にはない内省的な力があるのだろうか。


男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす 俵万智


カストロがチョコレートをつまみながらハバナ産の葉巻くゆらすのはなかなか絵になりそうだ。ちなみにカストロは演説が長いのが有名でなんでも5、6時間は平気でしていたそうだ。聴衆も大変だ。

ところで僕のバレンタインのほんとうの思い出は母がくれた不二家のピーナッツが入ったハートチョコ。たしか五十円くらいだったかな。当時は同情なんてと嫌だったけど今ではその時の僕と母をとてもいとおしく思う。安いハートチョコの素っ気なさが母の気の配りようだったのだろう。母のくれた義理チョコこそ僕にとっては究極の愛情チョコレートだったのかもしれない。